本をよく読んでいるのに身についていないのは思索が足りないから

本ブログはショウペンハウエルさんの「読書について」の読後メモになります。

  • 読書は他人の考えを無遠慮に土足であなたの頭に打ち込むということ
  • 多読はいずれ自分の考えをなくすということ
  • 思索は人間のような生物であるということ
  • 匿名が卑怯者の隠れ蓑になること(これは現代ネット社会にも通ずる)
  • 私が上澄み身の知識が多いのはおそらく思索が足りてなかっただろうと言うこと

この本は私が一言で要約すると「まず思索しろ。足りなかったら読書してもいい」と言う感じでした。

私自身、読書は好きなのですが、一方で薄っぺらい知識しか得られていないな…というモヤモヤ感にずっと悩まされていました。

この本を読んでハッとしたのは、メモにも残していますが思索が足りず、上澄だけの知識になってしまったからではないかと思います。


思索というのは、単純に自分だけで考え貫くことだと私は定義しています。

あることについて考える。例えば、私は上澄みの知識しか持っていないと感じている。

それを深掘りしてみます。本当か?上澄みじゃない知識は無いか?上澄みの知識とは何か?どういう状態か?いいのか悪いのか?例えば自分はどんなものを上澄みの知識と定義しているか…

この時に〇〇によると▲▲とかはこの時点ではなるべく避けます。それはまだ他人の考えだからです。

その時出てきた新しい考えをさらに深く広く考えていく。まるで地中に根を広げていくかのように…

私はまだできていませんが、これを突き詰めていくと上澄みの知識というのがどんなものか何なのか、自分の知識として根づき明確になることが予想されます。これが上澄みじゃない知識となるでしょう。新しい名前をつけてみても良いのかもしれません。


おそらく、哲学者というのはこれが頭の中でしっかりできているのだろうなと思います。

そして私は、思索をしていない知識ばっかり仕入れてしまったので、いざ自分で扱おうにも扱えない状態になったのかなと考えました。


思索についてはどうやって進めようかなと考えていたのですが、今は思いつくまま箇条書きをするスタイルに落ち着いています。

どうも、読書とは違いその日の気分や調子でできるかできないか決まるみたいなので、自分の赴くまま考えてみることとします。

今日はここまで。それではまた。